※記事に記載された所属、職名、学年、企業情報などは取材時のものです
刑法はもともと、形あるものを対象として作られてきた。しかし現代社会は、形をもたない情報や技術が大きな位置を占めている。工学部出身ながら“情報刑法”を専門とする大学院社会科学研究院の西貝吉晃教授に、サイバー・セキュリティやネットいじめ、メタバースにおける法の現在と未来についてお話を伺った。
サイバー犯罪に対して手薄な日本の刑法
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――サイバー・セキュリティに関して、どのような研究をされているのですか?
サイバー・セキュリティを維持するためには、サイバー空間上のどのような行為を処罰すべきかを研究しています。たとえば「不正アクセス」という言葉ひとつだけでも多義的であり、奥の深い研究分野です。
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またサイバー空間だけではなく、物理空間もあわせて、企業や組織の情報やネットワークを侵害する犯罪に刑法としてどう対応すべきか、という点についても検討しています。たとえば重要インフラへのサイバー攻撃と刑法の関係についても、電力や交通などの大規模インフラがサイバー攻撃で麻痺するような事態が起きないように、予防の観点も含めて議論をする必要があります。
――病院へのサイバー攻撃で業務が止まったというニュースはありましたね。
病院のネットワークが使えなくなって、重症の患者を処置できずにほかの病院に移送せざるを得なくなり、そのせいで患者が死亡してしまう、などという事態は十分に予測されます。物理世界で医療措置を妨害したことで人が亡くなった場合には殺人罪や過失致死罪の適用を考慮してもよいのですが、重要インフラに対する攻撃に対して、同様の規定をすぐに適用できるか、ということは立証上、疑問があるケースもあるかもしれません。
死者が出ていても軽い過失致死罪などしか問えない場合があるとすれば非常に深刻な問題となるため、そのようなサイバー攻撃の重大性に見合った重い刑を科せるサイバー犯罪の規定の整備が必要ではないか、と考えています*。
サイバー・フィジカル・セキュリティの維持に関する政策的議論及び罰則の現況
――たしかに刑法の整備が必要ですね。
さらに、サイバー空間においては、サイバー攻撃の拠点を見つけ、相手のサーバーをダウンさせるといった能動的サイバー防御について政府でも検討しています。これまでの法律では、そうした防御活動を行う権限を誰が持つのか、どこまでやってもよいのかが規定されていません。私は、日本の刑法的にどの程度までの攻撃が妥当な防御と言えるかを定義する必要がある、と提言しています*。どんな攻撃も許される状態になっているという状態は望ましくありませんので。
*『第7巻 安全保障 第7章 アクティブ・サイバー・ディフェンスと刑事実体法』(京都の法律文化社)にて論文を所収。
ネット上の集団的な個人攻撃に刑法はどう対応する?
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――サイバー空間での事件といえば、ネット上の集団的ないじめによって自殺者が出たことを背景に、最近、刑法が改正されましたね。
拘留又は科料という法定刑*しかもたなかった侮辱罪の法定刑が、2022年に引き上げられ、自由刑*の長期が1年になりました。ただ、侮辱罪とはそもそも、被害者の社会的評価を低下させるような行為をしたことを罪に問うものであって、被害者がどれだけ精神的なダメージを受けたかは主な考慮要素ではないんです。
*法定刑: 法律の条文で定められている刑の種別と重さのこと。刑罰の種類には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料 (1000円以上1万円未満の金銭納付)などがある。
*自由刑:刑罰の一種。受刑者の身体を拘束することで自由を奪うものをいう。日本の現行刑法では、懲役、禁錮、拘留が定められている。
――自殺につながるほどの重大な精神的ダメージをもたらす行為に対して、軽犯罪クラスの罪の法定刑を少し延長しただけでいいのか、という議論もよく見かけました。
そうなんです。さらに、炎上と呼ばれるようなネット上の攻撃は加害者が多数におよぶことが特徴で、共犯の定義にも当てはまりにくく、既存の刑法では扱いにくいのです。
改正の動きが出始めたころ、私はこうした事案に既存の侮辱罪を適用するのではなく、新たに“ネットいじめ罪”のようなものを作ってはどうかという論考を発表しました。今回は侮辱罪の法定刑の引上げという結果になりましたが、侮辱罪の運用方法については継続的に議論していくべき事柄だと思っています。
刑法の論理にとじこもらず、他分野との間にあるハードルを下げる
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――そもそも炎上とはどういう状態か、侮辱とは何か、社会的評価の低下と本人のショックとの関係など、刑法の中にはとどまらない問題を多く含んでいますね。
法律の世界も実社会も専門化が進むぶん、どうしても視野が狭くなり、問題のありかや解決策が見えにくくなりがちではあります。しかし他分野の視点を知り、自分の常識を見直すことで新たな展開が見えてくる問題も多いはずです。
私は工学部時代に、他分野の知見を積極的に取り込んで新しいものを作り出そう、という学際的な研究を好む研究室にいたせいか、分野を越えるハードルを「高いと思わない」ことが大切だと考えています。実際に高いか低いかは重要じゃないんです。
ちなみにいま私は、著作権法と刑法の研究者同士が膝をつきあわせて議論する研究会を共催しています。それぞれの法分野で、一定の方向性を有する議論が醸成されてきています。議論が進展する背景にも理由があるため、それが正しいという前提で他の分野の人に紹介すると、反対の意見が返ってくることがある。こうした両分野の「常識」の間にギャップが存在するために、話が嚙み合うようになるまでに時間がかかることもありますが、そこにこそ、新たな発見の種がひそんでいます。
先人の蓄積の上に石を一つずつ積むことが研究だ、という考え方も重要ですが、私は「新しいコンセプトを作り出すこと」も研究の醍醐味だと思っていますし、両者は両立するとも思っています。法律を学ぶ学生さんや若い研究者の方にも、すでに掘りつくされた、誰かの後をついていく研究ではなく、自分がこの先20年、30年と追求し続けることができそうなテーマをみつけ、新しい何かを、社会に役立つ何かを生み出す研究をしてもらえたらと思います。
人が生きる場所としてのメタバース
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――メタバース空間と刑法のありかたについても研究されていると伺いました。
私は大学院修士課程まではVRやMRの研究をする研究室にいました。まさにいまのメタバースですね。実はメタバースの中でも、物理空間における犯罪と似たような犯罪は起こり得ます。たとえば、誰かがメタバース内で所有しているものを奪うとか、性的な嫌がらせとか。とはいえ、物理空間の窃盗罪や住居侵入罪などをそのまま当てはめることは難しい。
今後、メタバースはビジネスやエンターテイメントの舞台としての空間というだけでなく、より公共的な空間になっていくと予想されます。物理世界よりもメタバース内を主な生活の場所として生きることを選ぶ人も出てくるかもしれません。例えば学校に通ったり、療養のために利用したり、福祉的な観点からも活用されることが考えられます。こうした背景から、メタバースで生きるという選択肢が浮かび上がります。SFのように聞こえるかもしれませんが、メタバースの研究者はそれを現実的な未来として見据えているのではないか、とも思います。
もし何十年もメタバースをメインの世界として生きてきた人がいきなり第三者によってアカウントを停止されてしまったら、その人は生きる場所を失うに等しいでしょう。そういう事態に法律はどう対応するか、が今後問題になるかもしれません。こうしたことにすぐに解答することは難しいのですが、サイバー空間に物理空間、生きる場所がどこであれ、人のための刑法学を構築したい、と考えています。
技術か、法かの二項対立でなく
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――無法地帯だから刑法で規律しよう、ではなく、人々がより安心して暮らせる社会にするにはどういう法律が必要か、という発想なのですね。
新しい技術が生まれると、それにともなうトラブルも事故も生まれます。そのときに、「この技術のせいで被害が起きたのだから、禁止してしまえ、規制してしまえ」という声も上がるでしょう。たしかに、禁止してしまえばその技術に由来する問題は起きません。でも、その次に生まれるかもしれない、よりよい技術の誕生をさまたげてしまう可能性もあります。
私は工学出身者として、新技術を規制して技術の進歩を止めるより、新技術が入ってきた社会がよりよいものになっていくにはどういう法体系が望ましいか、どのような法解釈が必要かということを考えたいと思っています。
技術も法律も人の手で作るものであり、社会に役立てようという目的で作られている。だから技術の進歩をとるか法律による規制をとるかという軸ではなく、実際に困っている人のためになる方策はないか、よりよい社会の実現に役立つ方法はないかを考えたいですね。
といっても、「こうあるべきだ!」という正義感に突き動かされて研究しているわけではありません。冷静で中立的な目線と熱い思いの両方をもつことで多様な論点を見出し、既存の枠組みを越えてどうすべきかを考える。それこそが研究者の仕事だと思っています。
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インタビュー / 執筆
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江口 絵理 / Eri EGUCHI
出版社で百科事典と書籍の編集に従事した後、2005年よりフリーランスのライターに。
人物インタビューなどの取材記事や、動物・自然に関する児童書を執筆。得意分野は研究者紹介記事。
科学が苦手だった文系出身というバックグラウンドを足がかりとして、サイエンスに縁遠い一般の方も興味を持って読めるような、科学の営みの面白さや研究者の人間的な魅力がにじみ出る記事を目指しています。
撮影
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関 健作 / Kensaku SEKI
千葉県出身。順天堂大学・スポーツ健康科学部を卒業後、JICA青年海外協力隊に参加。 ブータンの小中学校で教師を3年務める。
日本に帰国後、2011年からフォトグラファーとして活動を開始。
「その人の魅力や内面を引き出し、写し込みたい」という思いを胸に撮影に臨んでいます。