※記事に記載された所属、職名、学年、企業情報などは取材時のものです
千葉大学が力点をおいているバイオ研究のなかでも社会課題解決に大きく寄与する可能性が高い技術のひとつが粘膜ワクチン研究だ。粘膜ワクチンは、冷凍・冷蔵物流や注射器、医療リソース不要で、経口または経鼻噴霧で投与できる強みを持つ。また、経口型は完全閉鎖型の水耕栽培で育てたコメを使うグリーンワクチンであり、産業廃棄物をはじめとする様々な社会課題解決につながる。この粘膜ワクチン開発に至る経緯や研究者の思い、社会実装に向けた具体的な展開について千葉大学で粘膜ワクチン学部門の部門長を務め、未来医療教育研究機構の特任教授でもある清野宏先生にお話を伺った。
虫歯ワクチン研究から粘膜ワクチン研究へ
実は私は歯学部出身で、歯科医師です。1977年日本大学松戸歯学部卒業当時、虫歯は大きな社会問題でした。そんな中、欧米を中心に虫歯を予防するワクチン開発のプロジェクトが立ち上がり、私も卒業後すぐに米国南部のアラバマ大学バーミンガム校に留学する機会をいただき、私の恩師であるジェリー・マギー先生が中心となってワクチン開発を進めているチームに参加しました。
当時、免疫は体の中、つまりリンパ節や脾臓や骨髄に存在するとしか認識されていませんでした。そのため、口腔や鼻咽頭に始まり粘膜で被われた消化器・呼吸器は免疫臓器であり、巧みな免疫が存在するのだ、と言っても誰も信じてくれませんでした。
しかし口腔は呼吸器ともつながっているし、腸管にもつながっています。食べる、飲む、呼吸をするなど、いわゆる人間が生きていくために必須となる行為の場であると同時に、色々な異物が体の中に入る入口でもあります。また、口腔や鼻腔粘膜には多種多様な細菌も常在しています。この細菌の中には善玉菌も悪玉菌もいますし、免疫をはじめとしてヒトの体調の変化によって悪さをする日和見菌というものもいます。これらが体に悪影響を与えた場合には免疫が働いて防御します。
そこでマギー先生のご指導の下に基礎研究を積み重ねることによって、口腔・消化器・呼吸器に巧みで柔軟な免疫システムが存在していることを証明しました。今では誰でも粘膜免疫の存在を信じていますし、ある意味で粘膜免疫は免疫学での大きな潮流を形成する領域になっています。
古くて新しい経鼻ワクチン
その後1990年代に入り、大阪大学の微生物病研究所に本邦初といってもよい「粘膜免疫学」の研究室を立ち上げました。その時初めて知ったのですが、大阪大学では微生物病研究所の著名な先人のお一人である奥野良臣先生(故人)らが、すでに噴霧型の経鼻ワクチンを研究されていたのです。
奥野先生はインフルエンザのワクチン開発をされていて、当時から「インフルエンザが感染するのは鼻腔から上気道。そこからウイルスが侵入してくるのだから、ワクチンも鼻から投与したらどうか。」ということを考えられており、実際に数万人単位で学童に対して弱毒化したウイルスを鼻に噴霧する、という実証実験もされていました。当時は粘膜免疫の概念がなく、注射ワクチン群との欠席率の比較をすることで噴霧型ワクチンの効果は明らかになったものの、副作用などの観点からその後の研究開発は進まなかったと知り、副作用のない安全な粘膜ワクチンの開発をしようと決意しました。
冷蔵・冷凍、注射器・注射針、医療リソースのいらない米由来のワクチン
(1)始まりは開発途上向けのワクチン開発
経口・経鼻ワクチンにつながる、呼吸器と消化器の粘膜免疫システムのユニーク性を解明していく中、2003年に東京大学医科学研究所に招聘を受け、新しい粘膜免疫学研究室を立ち上げました。そこで粘膜免疫学の基礎研究とともに、それを基盤とした粘膜ワクチン開発に向けた臨床研究も開始しました。経口ワクチンに関しては注射型での接種現場での課題を抽出するところから始め、開発途上国をターゲットにしたワクチン開発を考えました。
というのも注射型ワクチンの場合、どうしても冷凍または冷蔵保存が必要です。ワクチンを製造してから現場まで運び、注射するまで冷凍・冷蔵保存をする、というのは開発途上国では非常に困難であり、その経費も莫大になります。そこでまずはこれを解決することが重要であると確信しました。さらに注射型では注射器・注射針を使いますが、使い捨てとして作っても、開発途上国ではこれを使い回しするケースが出てしまい、二次感染の元になるばかりか、医療廃棄物の処理という環境への問題も出てしまいます。
注射器・注射針が必要ないこと。患者に投与を行う医療従事者、医療リソースを限りなく必要としないこと。この二つを併せて考えた際、安全に飲むことができ、常温で保存することも可能なものとして、日本が誇る「お米」を使ったグリーンワクチンというアイデアが出てきました。
(2)粘膜ワクチンの社会実装手段の一手「ムコライス」の誕生|お米にワクチンの抗原遺伝子を導入
そこで、当研究室の幸 義和(現大学発ベンチャーHanaVax取締役)と野馳 智法(現 東北大学教授)らが中心となり、京都府立大学農学研究科、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)、農業生物資源研究所などお米の植物学の専門家にご指導いただいて、お米にワクチンの抗原の遺伝子を導入するという研究を進めました。
食べるためのお米と違い、人に投与するワクチンを作るためのお米は遺伝子改変をしています。実際は田んぼで作ると安価で済むのですが、遺伝子改変をしているため環境への影響を考えたり、最終的には食べ物としてではなく医薬品として人に投与するため、製造過程がきちんとコントロールされていなくてはいけない。そのためには完全閉鎖型で、医薬品の製造管理及び品質管理の基準(Good Manufacturing Practice: GMP)に準拠する植物工場のシステム作りが重要になってきます。そこで千葉大学園芸学部の後藤英司先生、株式会社朝日工業社(以下 朝日工業社)と連携し、世界で初めてコメ型経口ワクチンを作る完全閉鎖型の水耕栽培システムも開発しました。
つまり医学分野の我々と、農学・植物学の専門家、植物工場を中心とする工学系の研究者という、異分野が融合することによってできたのがコメ型経口ワクチンです。私たちはこれを「ムコライス」と名付け、その特許と商標も取得しました。
(3)生産システムを確立する工学アプローチが急務
こうした経緯で千葉大学と東大医科研、そして植物工場構築に関して朝日工業社と連携が整い、産学連携、異分野融合型でまずはコレラに対する経口ワクチン「ムコライスCTB」を開発しました。日本人の健常者の協力を得て第一相の臨床治験を実施し、ヒトでの免疫誘導効果を確認しました。この成果は2021年、千葉大学と東京大学の共同研究の論文として発表。そしてさらに人種が多様な米国で企業の協力も得ながら第一相の臨床治験を実施し、安全性と免疫誘導性が確認できました。
この結果を踏まえた次のステップを考えると、GMPを満たした完全閉鎖型の栽培システムの規模拡大が必須。そこで現在、後藤先生のグループと朝日工業社との共同研究で、LEDを使ったムコライスの安定生産型の構築が順調に進んでいます。
経鼻噴霧型ワクチンへの挑戦
(1)鼻の粘膜に定着するワクチンを開発する
呼吸器感染症を考えると、鼻から噴霧することでウイルスの感染を阻止し、重症化を防ぐという経鼻ワクチンも理にかなっています。けれど、ただ単に鼻に入れても鼻汁は出てくるし、くしゃみや鼻をかんだりすることでワクチンが物理的に鼻の外に押し出されてしまいます。そこで今度はいかに効果的に鼻の粘膜にワクチン抗原を定着させるか、という技術が必要になってきます。
(2)電荷でナノゲルを鼻粘膜に定着させるというアイデア
そんな中、当時東京医科歯科大学の秋吉 一成先生(現京都大学大学院工学研究科 教授)の指導を受けながら、先ほどの幸・野馳らが鼻の粘膜とナノゲルを電荷でくっつける発想を提案してくれました。ナノゲルはアミノ基を加えるとカチオン化(プラスの電荷を持つカチオンの性質を物質に持たせる化学反応)し、ポジティブチャージ*となるのですが、それを元々ネガティブチャージ*である鼻の粘膜に投与すると、ワクチンがきれいに電荷で張り付くということがわかりました。カチオン化ナノゲルという新しい経鼻ワクチンのデリバリー体ができ、これがとても大きなブレイクスルーの技術となったのです。これも医学と工学の異分野融合による成果です。この技術をもとに、HanaVax(ハナバックス)という粘膜ワクチン開発を推進する大学発ベンチャー企業を立ち上げました。
*電荷は、電磁気現象を引き起こす源である。電荷の量によって、ある物体が電磁場や他の電荷から受ける力の大きさが決まる。電荷量は正または負の値を取りうる。電荷量が正である電荷を正電荷(ポジティブチャージ)といい、電荷量が負である電荷を負電荷(ネガティブチャージ)という。
(3)肺炎球菌のカチオン化ナノゲル経鼻ワクチンのライセンス化と外部供給
肺炎球菌の注射型ワクチンはすでに存在しており高齢者に投与していますが、重症化は予防できても感染自体は阻止できないと考えています。しかも肺炎球菌は100種類以上存在しているため、現行の注射ワクチンは流行株を対象として投与しています。つまり病気を引き起こす肺炎球菌とワクチンの追いかけっこになっているのです。
しかし、交叉免疫(選択されたワクチン抗原により広範な免疫応答誘導がされる現象)により、異なる肺炎球菌に対して広範な防御免疫の誘導を可能とするタンパク質のワクチン候補抗原を使って経鼻ワクチンとして投与すれば、さまざまな型の肺炎球菌の侵入を阻止できるワクチンを作れるのではないか、というところから研究開発が進んでいます。
具体的にはPspAというタンパク質なのですが、これをカチオン化ナノゲルの中に入れると非常に効率良くPspAに特異的なIgA抗体が粘膜面で産生されます。さらに、この粘膜面経由の抗原取り込みにより、血清中のIgG抗体をはじめとした全身の免疫も誘導できるわけです。現時点でマウスからサルまで効果を確認できています。この肺炎球菌のカチオン化ナノゲル経鼻ワクチンは、HanaVax社を通してシオノギ製薬様にライセンス導出・契約ができ、産学連携によるヒトへの応用に向けた研究開発が進んでいます。
研究者、医師のみならずコミュニケーター育成が重要
今後も継続的な異分野融合も含めた協力者が増えて、社会の理解とサポートが得られればワクチン開発はどんどん加速できます。今回千葉大学の新しい産学連携の取り組みとして、経口・経鼻ワクチンに代表される粘膜ワクチンの開発はシオノギ製薬様とともに実現化していくのですが、同時に人材育成が非常に大切になってきます。それもただワクチン学の研究者を育てるだけでなく、産学協業を通じて、ワクチン学を専門とする医師、それからワクチンについて科学的なベースできちんと社会に正しい情報を提供でき、かつ生活者の意見・希望を的確に収集し、研究開発と医療現場にフィードバックできるコミュニケーター、つまりSNSなどの使い方をはじめ、社会が正しい判断ができるような情報配信と収集ができるスキルを具備する人材育成は今、とても大切です。そうした環境を作っていくためにも、総合研究大学として、千葉大学の全学での取り組みがますます重要になっていきます。
また将来的にはグリーンワクチン生産システムの一つとして、コメ型経口ワクチンMucoRiceの完全閉鎖型の大規模ワクチン生産工場を、東日本大震災の被害を受けた福島をはじめとする休耕地などで作るという夢も持っています。そのためにも、オール千葉大で進める未来粘膜ワクチン研究開発拠点を、さまざまな企業や研究者の集まる産学連携のハブ、また、研究を社会還元する発信地としていきたいと思います。
連載
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