※記事に記載された所属、職名、学年、企業情報などは取材時のものです
がん治療といえば手術、放射線療法、薬物療法の3つが主流だが、ここ10年で急速に期待が集まり始めたのが、患者自身の免疫を利用する免疫療法。千葉大学大学院医学研究院では、免疫細胞の一つ「ナチュラルキラーT細胞(NKT細胞)」を使う治療法の研究を早くから手がけてきた。研究チームを率いる本橋新一郎教授に、患者さんとともに取り組む臨床試験にかける思いと、研究開発の現在地を語っていただいた。
日本初の、iPS細胞を使ったがん治療
―2020年に一例目の治験が無事に行われた「iPS-NKT細胞療法」は、日本初の“iPS細胞を使ったがん治療”だと聞きました。
そうなんです。この治療法では、健康な人の血液から採取したNKT細胞を“初期化”します。初期化をすることで、細胞は全ての細胞型に変化して分裂、つまり“分化”できる能力(多能性)を持つ幹細胞、「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」となります。そこで我々はiPS細胞からNKT細胞を分化させたiPS-NKT細胞を、舌がんや喉頭がんといった頭頸部がんの患者さんに投与しています。
―なぜ、患者さん本人ではなく他人からNKT細胞を採ってきて、その上、iPS細胞にまで戻すのですか?
患者さんが必要なときに必要な量を、安定した質で投与できるようにするためです。健康な方から提供を受けたNKT細胞をiPS細胞にすると、そのiPS細胞から、質のばらつきが少ないNKT細胞を大量に作ることができるのです。
NKT細胞はもともと、自力でがん細胞を殺すだけでなく、ほかの免疫細胞を活性化させる力を持っています。iPS-NKT細胞は他人の細胞ですからいずれは患者さん自身の免疫によって排除されてしまうのですが、まるで元の細胞の遺志を継ぐかのようにほかの多くの免疫細胞が活性化してがんとの戦いをその後も続けることが期待されています。
―まさに、免疫のメカニズムを利用する治療法ですね。千葉大学の医学研究院は免疫研究で有名ですが、NKT細胞療法の歴史も長いのでしょうか。
NKT細胞が発見された1986年からおよそ40年にわたる研究の蓄積があって、ようやくいま、治験の段階まで来た、というところです。基礎研究で見つかったものがいかに革新的でも、そのすべてが新たな治療法として世に出るとは限りません。基礎研究から非臨床研究へ、非臨床研究から治験も含めた臨床研究へと橋渡しをして実用化を目指す研究を「トランスレーショナルリサーチ(橋渡し研究)」と呼びますが、私たちがやっているのはまさにその橋渡しです。その橋渡し研究を行うことで、革新的な治療法の多くは、基礎研究から実用化に至りますが、それには30〜40年はかかることが多いのです。
研究者になるつもりはなかった学生時代
―学生のときからそのような研究を志していらしたのですか?
実は、卒業後は臨床医になると決めていたんです。患者さんとの直接的なやりとりがある場で働きたいと思っていたので。
ところが病棟で働き始めてまもなく、当時の千葉大学の医学研究院長で、NKT細胞の発見者のひとりでもある谷口克先生の教授室に呼ばれました。先生は、NKT細胞によってがんが消えたマウスの写真を私に見せながら、「どうやお前、これでがんを治さんか?」と。それが、私がこの研究の世界に足を踏み入れた瞬間でした。
研究者としての私を育ててくれたのは、先日惜しくも亡くなられた中山俊憲先生でした。医学博士を取得してからは中山先生のサポートの元でこの研究を進め、私が研究者として独り立ちしてからも、いつも親身になって相談に載って下さり、必要なサポートをしてくださいました。中山先生がいなかったら、間違いなく今の私はなかったはずです。
企業の参入を促すために、医師主導で治験を行う
―いま行われているiPS-NKT細胞療法の治験は「医師主導治験」とのこと。治験といえば製薬会社が行うもの、という印象がありますが?
これまでに例のない治療法は成否が予測しがたく、企業としてはおいそれと手をつけられません。しかし誰も安全性や有効性の評価をしないままでは、研究も実用化も進まない。そこで先に私たち医師が治験を行って、安全かつ有効な治療法であることを示し、企業が参入を検討できる状況をつくろうとしているのです。
―一般の人がこの治療を受けられるようになるのはいつごろでしょうか?
幸い、この治験はこれまでのところ無事に進んでいます。これからは、有効性を評価するための治験も始まります。今後の治験その他がすべてスムーズに進んだとしても、承認に至るさまざまな問題をクリアするまでに5年以上はかかるでしょう。
―患者さんとしては、一刻も早く実現してほしいでしょうね。
そうですよね。臨床試験で患者さんと直にやりとりをする私たちは、「明日にでも新たな治療法を受けたい」と切望される患者さんと向き合うフロントラインに立っています。患者さんやご家族の切実な願いに触れるたび、安全性の確認と薬として承認されるまでの迅速さを両立させる努力を諦めてはいけない、という思いが強まります。
いずれは、患者数の多い肺がんにこの治療法を使いたい
―今後はどのように研究が展開されていくのでしょうか?
抗がん作用をより高めるために、iPS-NKT細胞とあわせて、別の免疫細胞である「樹状細胞」も投与する臨床試験をもうすぐ始めます。樹状細胞はNKT細胞を活性化し、NKT細胞もまた樹状細胞を活性化するので、大きな相乗効果を期待しています。
また、この治療法ではiPS細胞を使うので、将来的には、より抗がん作用の強い遺伝子を導入することも可能です。がんを見つける能力を上げたり、ほかの免疫細胞を活性化する能力を高めることもできるでしょう。
いま治療対象としているのは頭頸部がんだけですが、いずれはもっと患者数の多い肺がんにも使えるようにするために、投与する細胞の数をもっと増やす技術を模索しています。
これらを実現するために、理化学研究所の古関明彦教授の有するiPS細胞技術を始めとする基礎研究の力や、千葉大学病院の臨床試験支援部門や事務部門といった多くの方の力を借りながら前に進んでいます。
トランスレーショナルリサーチに欠かせないのは、偉大な先人たちの研究の蓄積、すなわち、小さな私たちが遠くの地平まで見渡すことを可能にしてくれる「巨人の肩」と、治療を実用化しようと一緒に汗を流してくれる「仲間」の存在なんです。
患者さんに「参加してよかった」と思ってもらえる治験を
―とはいえ、いろいろな立場の人が関わるトランスレーショナルリサーチは、間に立って板挟みになることも多いのではないでしょうか?
苦しい思いもしますが、それ以上に、さまざまな局面でモチベーションを高めてもらえる研究だと思います。
研究者としては、治験がうまく進まなかったら――と夜も眠れないほどの不安にさいなまれる日もあります。ですが研究への応援を込めたご寄付を見ず知らずの方からいただいて、iPS-NKT細胞療法への期待を感じ、励まされたりもします。
また、臨床試験では医師として患者さんと直にやりとりするので、自分たちの研究の意義や価値を肌身で感じることができます。そのような実感は、研究者であると同時に医師として現場に立つからこそ得られるものだと思います。
患者さんとのやりとりを通じて、厳しい状況に置かれている患者さんのニーズを知り、それに応えるために手を尽くすことができるのも、臨床試験に携わる医師としてのやりがいです。患者さんの一番の願いは「治してほしい」ですが、すぐにはそれが叶わなくても、求めていらっしゃることは必ずあります。平穏な状態を一日でも長く維持したいとか、もうできることはないと突き放さないでほしいとか……。
臨床試験は、患者さんのご協力があって初めて可能になるもの。だから患者さんには、臨床試験に参加してよかったと思える何かを受け取ってもらえるように、といつも考えています。
人の命にかかわる研究ですから、「とりあえず」や「一応」という取り組み方はありえません。やるなら全力で、がモットーです。
インタビュー / 執筆
江口 絵理 / Eri EGUCHI
出版社で百科事典と書籍の編集に従事した後、2005年よりフリーランスのライターに。
人物インタビューなどの取材記事や、動物・自然に関する児童書を執筆。得意分野は研究者紹介記事。
科学が苦手だった文系出身というバックグラウンドを足がかりとして、サイエンスに縁遠い一般の方も興味を持って読めるような、科学の営みの面白さや研究者の人間的な魅力がにじみ出る記事を目指しています。
撮影
関 健作 / Kensaku SEKI
千葉県出身。順天堂大学・スポーツ健康科学部を卒業後、JICA青年海外協力隊に参加。 ブータンの小中学校で教師を3年務める。
日本に帰国後、2011年からフォトグラファーとして活動を開始。
「その人の魅力や内面を引き出し、写し込みたい」という思いを胸に撮影に臨んでいます。