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科学技術の発展と未来社会の仕組みづくり~ELSIとRRIの役割 千葉大学 大学院国際学術研究院 教授 神里 達博[ Tatsuhiro KAMISATO ]

#ELSI
2024.07.16

目次

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※記事に記載された所属、職名、学年、企業情報などは取材時のものです

この数年で、急速に研究の世界に浸透したELSI(エルシー)。Ethical, Legal and Social Implicationsの頭文字から成るELSIは、科学技術の「倫理的・法的・社会的側面」について考える研究だという。大学や研究機関の外ではまだ耳慣れない言葉だが、新たな研究分野なのだろうか?――科学史、科学技術社会論、またリスク論を専門とする国際学術研究院の神里達博教授に、ELSIやその発展形である「RRI(アールアールアイ)」の背景や、ご自身がこの研究分野に辿り着いた経緯、そして目指すところについて伺った。

ELSIは“社会のために専門知を結集する制度”

――ELSIとは何でしょうか?

スマートフォンのように、科学技術は社会に対して恩恵をもたらすことが多いですが、時には原発事故のように災厄をもたらすこともありますよね。ELSIとは、新たに生まれた科学技術が「社会にとってよいもの」になるにはどうしたらいいかを考える研究、あるいはそのための制度をさします。

ネガティブな影響を抑えるには、理工学系の研究の進展だけでなく、社会学的な視点や歴史学の知見、法学や経済学、倫理学や文化人類学など人文・社会科学系のさまざまな専門知が必要です。その意味でELSIには、「我々が持っている知識を総動員する仕組み」の側面があるといえるかもしれません。

――ELSIは研究分野の一つとして生まれたのではなく、制度や仕組みのようなものなんですね。

科学技術が社会に与える影響を考えようという動きは20世紀の後半から欧米で広がり、「科学技術社会論(Science, Technology and Society: STS)」と呼ばれて今に続いています。ただ、ELSIという言葉が誕生したのはアメリカでヒトゲノム計画*が立ち上がった1988年です。

*30億ドルという巨額の費用を投じ、人間の全遺伝子を解読しようという目標を掲げて1991年に国際共同研究として開始されたプロジェクト。

この計画の責任者となった生命科学界の重鎮であるジェームズ・ワトソン*が、「ヒトゲノム計画の倫理的、法的、社会的影響(ELSI)に関する研究に、全体予算の3%を充当すべきだ」と発表したのです。これが「社会的に大きな影響を及ぼすことが予想される研究において、あらかじめ一定の研究費を人文・社会科学系の研究に充てる制度」として欧米で定着していきました。

*米国出身の分子生物学者。フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンスらとともに、DNAの分子構造等の発見により、1962年、ノーベル生理学・医学賞を受賞。

2010年代に入ると、ヨーロッパを中心に、ELSIの先の概念として「責任ある研究とイノベーション (Responsible Research and Innovation: RRI」という言葉が生まれました。

私たちにとっての理想の社会像から逆算し、そのような社会の実現を目指して研究やイノベーションを進めていけるよう、ELSI的課題に配慮し、あらかじめ研究の方向性に社会のニーズなどを反映させよう、という考え方です。マイナスの影響を抑える“規制”的な性格が強かったELSIに対して、社会のために適切に科学技術を発展させていくという、プラスの方向性を強調する意識が前面に出ているのがRRIの特徴と言えるでしょう。

――ELSIやRRIの議論に参画するのは、科学技術社会論の専門家ですか?

いえ、さまざまな分野の研究者が参画します。そもそも科学技術社会論は学際領域なので、多様な専門分野から研究者が集い、社会と科学技術の関係を考えるための「場」という性格が強いです。そのためELSIにおいても、科学技術社会論の専門家の役割は、さまざまな専門分野をつないだりコーディネートしたりすること、と言えるかもしれません。

生命科学を背景に、科学史を軸足に

――となると、神里先生のご専門はELSIでも科学技術論でもなく……?

元々は科学史です。私のELSIとのかかわり方は、科学史的アプローチでELSIやRRI登場の経緯や変遷を見る研究と、ある特定の科学技術の社会的側面を考える研究を行って、それが結果的にELSIの色彩を帯びる、というものの二通りがあります。

後者の研究の例としては、日本でも2001年に発生した狂牛病(BSE)問題でしょうか。私は学部時代に工学部で黎明期のバイオインフォマティクスを学んでいたので、生命科学分野に少し土地勘がありました。それもあって、生命を工業的に扱うことで生じる社会的なリスクに注目して研究しました。当時はELSIを意識していたわけではありませんでしたが、振り返ってみればELSIの側面を持った研究でした。

――工学部を出て科学史の研究に進まれたということは、理系から文系研究者に転身されたのですね。

実は、学部卒業後は旧・科学技術庁に就職をしたんです。ただ、役人の仕事はどうも自分に向いていないと気づき、大学院に入り直して科学史を専攻しました。科学を対象にしているとはいえ歴史学ですから、れっきとした人文科学、すなわち文系ですね。

狂牛病問題のあとも、原子力技術、コロナ禍、情報技術などと社会との関係を調査・考察する研究や、大学院生を対象とした科学技術社会論の教育プログラムを続けてきました。

情報技術の研究は必ず社会に影響を及ぼす

――ELSIやRRIの観点から、いま最も注目しているのはどの分野ですか?

やはり情報技術ですね。情報技術は、ほかの科学技術とはちょっと違う性質を持っているように思うんです。情報は社会と密接に結びついており、これらを分離して考えることはできません。つまり、倫理的、法的、社会的な側面を最初から持っています。

――情報技術というと、まず思いつくのはAI関連の技術ですが……。

雇用や報酬がAIに脅かされるのではないかなどと、AIに不安を覚える人は多いですね。しかし、それはAIが引き起こした問題なのか、あるいは以前から社会にあった問題が顕在化しただけなのか。

何かよくないことが起きると「新技術のせいかも」と思いがちですが、それだけでは本当の原因がわからなくなり、解決が遠のいてしまいます。大切なのは「問題の捉え直し」だと私は思いますが、これもまたELSIの視点が必要とされる場面の一つかもしれません。

私自身がいま特に関心を寄せているのは、複数の分野が重なる領域から生じる問題です。生命科学と情報科学の重なる領域では、医療情報とゲノムデータを結びつけることで、さまざまな応用が期待されます。例えば、プライバシーなど機微な問題に関わることも推測できるようになる可能性があります。そのため、AI技術とゲノム科学の両方の性質に配慮した形で、私たちにとっての倫理やリスクについて考える必要があります。しかしいずれの分野も進歩が速く、専門性が高い。このような先端分野の境界領域で生じるELSI的な問題への取り組み方に、関心があります。

「ブロックチェーン」技術の歴史、応用、可能性について記した書籍『ブロックチェーンという世界革命』(河出書房新社)

もう一つは、「信頼」を生み出したり「事務」を肩代わりしたりすることができる、ブロックチェーンの技術です。世間の目はいまだに、ビットコインなどの暗号資産にばかり注がれていますよね。SFの世界でも予想されることのなかった、まったく新たな技術であるせいか、世界的にもそのインパクトの実態はさほど認識されていません。しかし、社会のあり方を大きく変える力を持っていると私は思っています。

本当の教養とは、知をハンドリングする力

――ELSI/RRIに興味をひかれた若い方に何かアドバイスがあれば

ELSI/RRIは日本でもようやく関心を集め始め、私のところにも、ELSIに配慮しながら研究活動を進めていくにはどうすればいいのか、といった相談が寄せられています。

ELSI/RRIに興味を持たれた若い方は、まずは軸足となるほかの専門分野を持つのが良いかもしれません。木の“根”にあたる自分の専門性がないと、ほかの分野との共同作業もできませんから。

ただし、「専門性」は単なる「知識の蓄積」とは違います。いまや、検索してわかることを記憶していても意味がない。ELSI/RRIも含めて、複雑な現代社会において必要とされるのは「知をハンドリングする力」でしょう。

例えば、未知のものごとや考え方に出会ったときに、どのような態度をとれるか。すでに身につけた知識体系に固執する、いわば「専門主義」に陥ってしまえば、現実の社会のように多面的な存在を俯瞰することはできないでしょう。

自分が持っている専門知を相対化し、自身をアップデートしながら新たなものごとに対応できる力こそが、現代においては本当の「知性」と呼べるのだと思います。ELSI/RRI は、そのような活動を実践することのできる、一つのフィールドかもしれません。

現代は、すべての分野において、異なるタイプの知と知を結びつけて考えることのできる力が求められています。真に知的であるとはどういうことか。これからの世界に必要とされる「新しい教養」とは何か。大学が率先して、知のあり方を刷新していく存在にならなくてはいけないと思っています。

――今後の研究展望についてお聞かせください

今年度からは、司法や捜査などの領域における科学的根拠について、ELSIの観点から光を当ててみようと考えています。以前から目撃証言やDNA鑑定などの限界について、心理学や人類学などの研究者による検討が行われてきました。科学的な鑑定技術は大変有用である一方で、その使い方を誤ると「えん罪」を生むこともあります。公正な社会の実現のために科学や技術が適切に使われるよう、この研究を通じていくばくかでも役立つことができたらよいなと考えています。

インタビュー / 執筆

江口 絵理 / Eri EGUCHI

出版社で百科事典と書籍の編集に従事した後、2005年よりフリーランスのライターに。
人物インタビューなどの取材記事や、動物・自然に関する児童書を執筆。得意分野は研究者紹介記事。
科学が苦手だった文系出身というバックグラウンドを足がかりとして、サイエンスに縁遠い一般の方も興味を持って読めるような、科学の営みの面白さや研究者の人間的な魅力がにじみ出る記事を目指しています。

撮影

関 健作 / Kensaku SEKI

千葉県出身。順天堂大学・スポーツ健康科学部を卒業後、JICA青年海外協力隊に参加。 ブータンの小中学校で教師を3年務める。
日本に帰国後、2011年からフォトグラファーとして活動を開始。
「その人の魅力や内面を引き出し、写し込みたい」という思いを胸に撮影に臨んでいます。

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