■研究の概要
千葉大学大学院工学研究院の森田健教授、宮本克彦教授、尾松孝茂教授、産業技術総合研究所の揖場聡研究員、東北大学の石原淳助教、大阪公立大学の余越伸彦准教授らの研究チームは、空間偏光構造を持つ光の粒(光子)の量子力学的な情報を、半導体中の電子の空間スピン構造へ転写することに成功しました。空間偏光構造を持つ光子は、スピン角運動量と軌道角運動量に関する量子情報を持つ高次元光子で、原理上1光子あたり無限の情報をのせて伝送することが可能です。高次元光子の量子情報を、記録・操作を得意とする固体中の電子に転写する本研究成果は、光の角運動量の可能性を格段に広げた高次元量子インターフェースの実現につながるもので、将来の大容量の量子情報通信に貢献することが期待されます。
本研究成果は、2024年8月8日に米国科学学術誌Optica Quantumで公開されました。
■研究の背景:
量子力学に基づく情報伝送や記録・演算処理を行う「量子情報処理」が、安全性の高い通信や古典情報処理の限界を超える、次世代の情報処理技術として注目されています。中でも光子注1)と電子注2)は有望な量子ビット注3)として期待されています。特に光子は量子情報の伝達を得意とし、また固体中の電子は量子情報の記録・演算処理を得意とします。異なる特徴を持つ光子と電子の、量子情報変換技術(量子メディア変換)は、長距離量子情報通信を可能にする量子中継注4)技術を担い、大規模な量子インターネット注5)の構築に役立つ基盤技術です。
光子が持つ量子情報の一つが「偏光」です。光子の偏光は、この右回りと左回りの円偏光の重ね合わせ状態によって表すことができ、それを視覚的に表現したものがポアンカレ球注6)です(図1左)。同様に、電子も「電子スピン」と呼ばれる量子情報を持ち、その状態は上向きスピンと下向きスピンの重ね合わせ状態としてブロッホ球注7)上で表すことができます(図1右)。光子の偏光状態と電子のスピン状態は、スピン角運動量(Spin angular momentum: SAM)注8)と呼ばれる「自転」に例えられる角運動量を共通に持ち、それを介して量子情報の交換が可能です。一方、光子には自転とは異なる「回り方」に関する「軌道」の量子情報も存在します。そのような光子は、螺旋を描きながら進むことができ、軌道角運動量(Orbital angular momentum: OAM)注9)と呼ばれる「公転」に例えられる角運動量を持ちます(図2上段右)。OAMを持つ光子の軌道状態は、SAMのように2つの状態(右回り・左回り)だけではなく、理論上は無限の数の異なる状態をとることができるため、高次元の状態を形成することができます。
最近では、SAMとOAMの性質を同時に持つ「高次光子」注10)が注目されています(図2上)。この高次光子は、SAMとOAMに対応する偏光と軌道を合わせた空間偏光構造を持つことができ、一つの光子により多くの量子情報をのせられるだけでなく、自由度の異なるSAMとOAMがもつれた光子を形成するといった特徴を持ちます。したがって、高次光子は新たな量子の資源として活用する、高度な量子情報技術への応用が期待できます。
■研究の成果:
しかしこの高次光子に対応する電子の状態は全く未知な存在でした。そこで研究チームは、高次光子の偏光の空間構造に対応したスピンの空間構造を持つ電子状態を理論的に構築し(図2下)、新たな電子状態の実現を試みました。その結果、各空間位置におけるスピンの量子力学的な重ね合わせを明らかにし、空間偏光構造を持つ光子を用いた空間スピン構造を持つ新たな電子状態の実現に成功しました。
これまでは、光子と電子間の量子インターフェースではスピン角運動量が利用されてきました。本研究成果は、軌道角運動量も備えた高次元量子インターフェースの構築につながるもので、角運動量を利用する可能性を格段に広げた技術であり、大容量の量子情報通信への貢献が期待できます。
■今後の展望
本研究成果は、異なる自由度をあわせ持つ光子から電子への量子状態転写だけでなく、異なる自由度を持つ光子の高次元の量子もつれ状態から量子もつれスピンシステムへの状態転写についても明確な指針を示すものです。これはグローバルな量子ネットワークの構築に向けた大きな一歩といえます。
■用語解説
注1) 光子:光の粒子で情報の長距離伝送を得意とする。光子は偏光と呼ばれる量子力学的な状態を持ち、右円偏光と左円偏光の二種類のスピン角運動量(プランク定数の±1)の重ね合わせによって状態を記述することができる。
注2) 電子:負の電荷を、電気の起源となる持つ素粒子。電子のスピンは、電子に付随する磁気的な量子状態。上向きスピンと下向きスピンの二つのスピン角運動量(プランク定数の±1/2)の重ね合わせによって状態を記述することができる。
注3) 量子ビット:量子計算を行う上での量子情報の最小単位で、キュービットとも呼ばれる。古典ビットは2状態であるが、量子ビットは2状態の重ね合わせである。光子は伝送を得意とする量子ビットであり、電子スピンは量子の記録・操作を得意とする量子ビットである。
注4) 量子中継:量子情報通信の距離を延ばし、通信路の交換を可能とする中継器。そのため、伝送に適した光子からメモリーに適した電子などの量子情報の変換が必要となる。
注5) 量子インターネット:離れた場所にある量子計算機同士を接続してネットワークを形成し、量子の情報通信や分散処理を行う量子版インターネット。
注6) ポアンカレ球:光子の偏光状態を表す球。全ての偏光状態は、原点から球面を指す単位ベクトル(2次元複素ベクトル)として可視化できる。z
注7) ブロッホ球:電子のスピン状態を表す球。全てのスピン状態は、原点から球面を指す単位ベクトル(2次元複素ベクトル)として可視化できる。
注8) スピン角運動量:粒子そのものに内在する量子的な角運動量。古典的には自転(スピン)に対応する。光子は偏光と電子のスピンは、スピン角運動量を持ち、量子の状態変換が可能である。
注9) 軌道角運動量:粒子の回転を表す量子的な角運動量。古典的には公転(軌道)に対応する。光子はスピン角運動量(偏光)以外に、軌道角運動量を持つことができる。
注10) 高次光子:スピン角運動量や軌道角運動量を持ち、空間に依存した偏光構造を持つ光子。
■論文情報
タイトル:Coherent transfer of the higher-order polarization state of photons to the spin structure state of electrons in a semiconductor
著者: Toshiki Matsumoto, Sota Sato, Shota Akei, Yuichiro Nakano, Satoshi Iba, Jun Ishihara, Katsuhiko Miyamoto, Nobuhiko Yokoshi, Takashige Omatsu, and Ken Morita
雑誌名:Optica Quantum
DOI:10.1364/OPTICAQ.527615