※記事に記載された所属、職名、学年、企業情報などは取材時のものです
千葉大学ビジョンの一つ「Social Engagement」の一環として実施している学長主催講演会。2023年3月8日に開催された3回目では、イラク研究についての特別講演を行った酒井啓子教授に加え、中山俊憲学長と藤原帰一学長特別補佐の3人によるパネルディスカッションが行われ、地域研究や人材育成などについて意見交換しました。
千葉大学法政経学部教授。東京大学教養学部教養学科卒業。ダーラム大学中東イスラム研究センター修士号取得。京都大学博士号取得。アジア経済研究所に就職後、在イラク日本大使館専門調査員、カイロ・アメリカン大学客員研究員、東京外国語大学教授などを経て、2012年10月より現職。2017年より千葉大学グローバル関係融合研究センター長を務める。
中山 俊憲(なかやま・としのり)
千葉大学学長。山口大学医学部卒業。東京大学大学院医学系研究科修了。研究専門分野は免疫学、アレルギー学。海外研究所や国内大学勤務を経て、1998年に千葉大学大学院に助教授として赴任。教授、副学長、医学部長などを歴任し、2021年4月より現職。
千葉大学国際高等研究基幹特任教授・学長特別補佐。東京大学法学部卒業。同大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学法経学部助教授、ブリストル大学政治学研究科客員教授、東京大学大学院法学政治学研究科教授などを歴任。2022年10月より現職。
研究者の少ないイラク研究に踏み出した理由
藤原 今回の学長主催講演会のパネルディスカッションは、イラク研究の第一人者として活躍されている酒井啓子教授、中山俊憲学長、学長特別補佐を拝命している私、藤原帰一で進めていきたいと思います。前半は、私から酒井先生にイラク研究について伺い、後半は人材育成について中山学長から酒井先生に質問をしていただきます。
酒井先生、多くの研究者が欧米についての研究を選ぶなか、そもそもイラクについて研究しようと思ったのはなぜでしょう。
酒井 大きく2つあります。1つめは大学時代、中東研究者が少なかったので挑戦してみたいと思ったことです。先生がおっしゃるように、研究対象に欧米を選ぶ人は多く、加えて私の学生時代はアジアに関心を寄せる人も増えていましたが、私はへそ曲がりなところがあるので、あえて研究者が少ない中東をやってみたいと思いました。
2つめは中東の中からなぜイラクを選んだかという点ですが、就職したアジア経済研究所で中東研究を希望した際、上司からイラクをテーマとするよう指示があり、その言葉に従ったのです。とはいえ、現在までイラクに関わり続けているわけですから、結果的には運命の出会いだったと感じています。
藤原 研究者の中には、途中でテーマを変更する人もいますが、先生の場合はイラク一筋ですね。研究を進めるうちにイラク愛のようなものが深まっていったのでしょうか。
酒井 「愛が深まった」というより、「浮気をする機会がなかった」といったところですね(笑)。というのも、イラクは次から次へといろいろなことが起きるので、結果として目が離せなかったんです。例えば1989年ベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国で次々に独裁体制が崩壊していったのを受けて、クウェートで民主化運動が起こりました。実はこのとき、私はイラクから少し視野を広げて、隣国のクウェートの情勢に強い関心を持っていました。ところが翌年、そのクウェートにイラクが侵攻してきて、湾岸戦争の発端となったんです。
藤原 湾岸戦争後の内戦がさらにイラク戦争へとつながっていくわけですから、イラクとは離れられなかったんですね。
情報の読み解き方や文化人類学的手法を学ぶ
藤原 先ほど、アジア経済研究所に入ってからイラク研究をスタートされたとのお話がありました。研究者が少ないということは資料や情報にも限りがありますし、フィールドワークでも苦労されたと思います。どのような方法で学ばれたのでしょうか。
酒井 確かに情報は少なく、研究者としてはつらい状況でした。ただ、少ないからこそ情報に対する着目の仕方は鍛えられました。私が参考にしたのはソビエト連邦に関する研究手法です。ソ連の情報もかつては統制されたものでしたが、研究者たちは継続して状況を注視する中で、要人の発言など新たな材料が出たときに、どの点にどういう変化が起きたかに着目しました。この手法はイラク研究でも有効です。
また、フィールドワークについては、内戦や戦争と隣り合わせの国なので簡単に行ける状況ではありませんでしたが、それだけに限られた機会の中で自分が見たことや会ってきた人から得た情報が貴重になるので、人脈を築き維持することを重視しました。
藤原 イラクのような混乱のある国では、一口に人脈といっても民衆の話を聞くのは苦労があったのではないですか。
酒井 自由に何でも話せる状況ではなかったので、工夫が必要でした。私自身は国際政治が専門ですが、仕草や表現にどんな意味が隠されているのか、行間を読み解くような、文化人類学的なアプローチの重要性に気づかされました。
民主化を経験した若者が未来への懸け橋に
藤原 イラクから中東全体へと視点を移すと、2011年に「アラブの春」と呼ばれる大規模な民主化の流れが起こりました。先生はこれをどのように捉えましたか。
酒井 湾岸戦争後もイラク戦争後も独裁や内戦といった困難が続き、人民の声が政治に届くことはないのではないかと、半ばあきらめの気持ちがあったので、私に限らず中東研究者にとってはうれしい驚きでした。それ以前の中東は権威主義に支配されていたので、研究も権威主義研究にならざるを得ない面がありましたが、これからは民主化や市民社会を対象とした研究ができると思った記憶があります。
藤原 ところが、実際には中東の民主化は思うように進みませんでしたね。先生は近著『「春」はどこにいった』(みすず書房)で、アラブの春以降の中東について分析していらっしゃいます。そこから10年が過ぎた今、当時の中東の状況をどのように振り返っていらっしゃいますか。
酒井 アラブの春で政権が変わったのに、今度はその政権が権威主義化してしまい、イラク隣国のシリアや北アフリカのリビアでも内戦が発生しました。春から冬へと後戻りしてしまったことは大きな挫折ではあるのですが、一方で若い世代を中心に、民主化につながる市民運動を経験したというのは、未来への懸け橋として大きな意味を持つと思います。
藤原 私はフィリピン研究が専門ですが、実はフィリピンも似た経緯をたどっています。1986年、独裁者として君臨したマルコス大統領が民主化革命で大統領の座を追われましたが、国内の混乱は続き、昨年にはマルコス大統領の息子が大統領の座に就きました。民主化の流れは一方向に進むという前提が成り立たないというのは私も感じています。
酒井 民主化を経験した人が、その経験を次にどう活かしていくかを見ていきたいですね。
課題解決には現地との地道な交流が重要
藤原 先ほど人脈が重要とのお話がありましたが、中東地域の研究者や学生と交流する中で気づかれた点、印象深いエピソードなどがあればお話しください。
酒井 イラクでは2019年に大規模な市民デモが起きましたが、イラクの人民にとってあまり経験のないことですし、海外からの情報も入らない中、日本ではどんな市民運動があったのかを聞かれました。今のイラクと似たような状況が海外であったのなら、なぜ起きたのか、イラクに当てはめるとどういう意味を持つのかについて学びたい気持ちが強いんでしょうね。こういう発想には私も学ばされました。日本とイラクの地域研究を比較する視座にもつながるので、お互いに学び合うことが重要だと感じています。
藤原 地域研究の課題についてはどのようにお考えでしょうか。先生の講演の中でも、「取扱説明書」から始まって、より地域に根差したものへと変化しているとのお話がありましたが、学問としての体系化が進むと、地域との距離ができてしまう面もあると思います。また、現地の言語も覚える必要がありますし、フィールドワークも欧米に比べると困難です。そんな中で、地域研究を続けることの意味も含めお話しください。
酒井 非欧米の研究者と話していると、欧米との距離を感じるという人が少なくありません。彼らも立派な研究者なのに、翻訳や情報収集だけやらされて、分析からは除外されてしまうんです。ただこうした研究者の中にも、自ら学会などで発信していこうという動きは出てきていますし、私もそういうグループとの交流は重視しています。先生からご指摘があったような課題は今すぐ解決できるものではないので、地道に続けることで方向性を見出すしかありません。
藤原 現実を正しく見るには現地の声は重要ですし、自主的な発信と連携するのは意義深いと思います。地域研究の役割はますます大きくなると思うので期待しています。
グローバル関係学の全学研究拠点を設立
中山 続いて、千葉大学での研究や人材育成について、学長の私から質問させていただきます。酒井先生は2017年に、千葉大学初となる人文社会科学系の全学研究拠点として「グローバル関係融合研究センター」の立ち上げに尽力していただき、センター長もお願いしています。こちらの活動についてご説明ください。
酒井 2016年に文部科学省に採択された「グローバル関係学」の一環として発足させていただきました。私はこれまでイラクの地域研究に携わってきましたが、グローバルな危機に対しては日本も無関係ではないという実感があります。そこで、格差の拡大や排外主義、多文化社会の問題など、現代のグローバル社会が直面する多様な課題と向き合い、解決策を探るとともに、既存の学問の枠を超えた新しい応用研究分野を生み出すことを目的としているのが当センターです。
中山 多様な課題をテーマとされているとのことですが、直近で力を入れているテーマにはどんなものがあるのでしょう。
酒井 グローバル関係融合研究センターを核に進めているテーマとして最近出てきたのが、日本に滞在している移民や難民の問題です。実は千葉県内には、四街道市のアフガニスタン人コミュニティや山武市のスリランカ人コミュニティなどが点在しています。こうしたコミュニティはまさにグローバル関係学の趣旨に合致したテーマですし、千葉大学がこのテーマに向き合うことには大きな意義があると考えています。成果としても、2世や3世の方への協力支援など、大学教育を超えた形での交流や人脈づくりが進んでいます。
優秀なグローバル人材育成のための環境整備
中山 グローバル関係学を今後も広げていけるよう、先生の後継者をぜひ育てていただきたいのですが、今後の展望はいかがでしょうか。
酒井 個別のテーマを通して、グローバル関係学の意義を理解した人材は確実に育っていると実感しています。加えて千葉大学は10学部を擁する総合大学なので、今後は他学部とも連携した横展開を図りたいです。グローバル関係学はいかようにも研究範囲を広げられるので、医学関係や理系の先生方など、関心を持たれた方からご連絡いただければうれしいですね。
中山 多くの研究者が興味を共有できれば、真の文理融合が進んでいくと思いますし、そうしたネットワークを基盤に次の新しい学問領域が生まれることに期待します。
最後に、千葉大学のグローバル人材育成体制に対してご意見があればお聞かせください。
酒井 法政経学部は国内で就職する学生が多かったのですが、私の授業を取る学生の中には海外志向の人も増えていて、グローバル人材育成を目指す大学の方針は実を結んでいると思います。一方、最近目立つのが、途上国で社会人経験を積んだ後に学位を取りたいと希望する留学生の存在です。優秀な人材は多いのですが、経済的な面でなかなか学業に集中できないという現実もあるので、奨学金などのサポート体制づくりができるといいなと思います。