※記事に記載された所属、職名、学年、企業情報などは取材時のものです
あるときは霞が関や筑波を行き来する農林水産省の職員、またあるときは野菜ソムリエ、そして絵本作家――いくつもの顔を持つ中野明正 特任教授が挑むのは、チームで取り組むスマート農業による農業の活性化だ。産学官連携のキーパーソンに農業に対するひとかたならぬ思いを伺った。
農業の技術・制作・現場の立場を理解できる希有(けう)な存在
―先生はなぜ農業の道へ進まれたのですか?
実家は山口県宇部市の農家で、生まれたときから農業は身近なものでした。ちょうど進路を決める1985年頃に、アフリカの飢餓・貧困問題に世界が団結して取り組むムーブメントが起こりました。アフリカ支援のために名曲 “We Are The World”が作られたのと同じ頃に広まったバイオテクノロジーなどの新しい技術にとても興味を持ち、「自分もバイオで食料危機を解決するぞ!」とこの道に進みました。
―大学院修了後は、農林水産省へ入省されたのですね。
農業について知れば知るほど、すごく大変な状況だと気づいたんです。担い手はどんどん減って高齢化が進み、大変な苦労の割に儲からない――そんな負の構造をなんとかしたいと思い、政策や補助金そして研究開発という大枠の仕組みを整えて農業界を根っこから盛り上げようと農林水産省の研究機関を就職先に選びました。
農林水産省は「現場の役に立つ研究をすべし」という雰囲気が強かったので、自然と現場で使いやすい技術の開発を最優先に考えるようになりました。研究所と行政機関、それに生産者さんの現場をバランス良く行き来する働き方を通して、技術‐政策‐現場それぞれの立場を理解できる視野を身につけられました。
農業を劇的に変える「スマート農業」〜肉体労働から頭脳労働へ
―先生が研究されているスマート農業とは、どのような農業なのでしょうか。
スマート農業とは、ロボット技術や情報通信技術(ICT)など、最先端の技術を取り入れた新しい農業です。先ほども申し上げたように、従来の農業は稼ぐことが難しいので、収入を上げるためには生産性の向上が必須です。下の式で表されるように、生産性を上げるためには収量と品質をアップして労働時間を減らせば良いのです。この3つのポイント全てに力を発揮し、生産性に大きく貢献するのがスマート農業です。
生産性=(収量×品質)÷労働時間
―生産性を上げて、きちんと収益が得られるスマート農業なら、新規就農も増えそうですね。
その通り、スマート農業は従来の農業のイメージを大きく変えます。熟練の生産者の技と知識はデータ化され、デジタルで継承されます。高い農業スキルは不要になり、過酷な肉体労働から情報技術を駆使する頭脳労働へと転換します。異業種からの参入や若い方の就農にも期待しています。
―逆に、高度なIT技術を利用できないと取り残されてしまうのでしょうか。
そんなことはありません。けれども、新しい技術を取り入れると生産効率がアップするのは確かです。「スマート農業」と聞くと、全てがコンピューター制御されたSF感あふれるモノをイメージされるかもしれませんが、水やりやハウスの換気といったごく簡単な日常作業の自動化だけでも立派なスマート農業です。
企業が保有している一見関係ないようにも思える技術が、実はスマート農業で生かせる可能性も十分にあります。アイデアを一緒に形にして、スマート農業をさらに推進できたらうれしく思います。
手間のかかるミニトマト栽培の課題をチームで解決
―先生が今行っている研究について教えてください。
トマトの栽培を30年ほど研究しています。その中でミニトマトは近年生産量が大きく伸びている野菜です。皆さんのお弁当にもよく入っていませんか?彩りもよく、かわいらしいですよね。
では、収穫して出荷する流れを想像してみてください。実は小さい実をひとつひとつ確認してちょうどいい成熟度のものだけを人の手で収穫する、非常に手間のかかる野菜です。
しかも皮が薄いほうが口当たりも良く好まれます。裏を返すと裂果(皮が破けてしまうこと)が起こりやすいのです。裂果したものは出荷できませんから、人の手で選別して取り除きます。裂果は果実表面が濡れたり収穫が遅れたりするとたくさん発生します。流通過程で起こるとカビなどの原因にもなるやっかいな存在です。
―ミニトマトの栽培は、思った以上に大変なのですね。スマート農業で課題をどのように解決できるのでしょうか?
まず、ひとつずつ人の手による収穫方法から、ロボットによる「房どり」収穫へ転換してみました。房どりとは、文字通りブドウのように房ごと収穫します。以前からある品種だと、成熟がそろわなかったり,すべての果実が成熟するのを待つ必要があり、裂果したりします。そこで房どりに向いている、着色がそろい裂果が少ない品種を開発します。また、葉で実が隠れてしまうと、ロボットが見つけられず収穫できません。そこで、葉が繁り過ぎるのを抑制する環境制御や栽培システムの探索も行いました。同時に、収穫ロボットの開発、最適な流通システム・包装の改善なども進めています。
―まるで「ミニトマトの栽培から流通」全体を作り直すようです。
私のモットーは「園芸イノベーションで世界を豊かに」です。一つ一つの改善は小さくても、それらの技術を集めてトータルで改善すれば、大きなイノベーションを起こせます。私がコラボレーションを重視する理由はそこにあります。
これまで多くの企業・研究者・生産者と交流してきました。私の立ち位置は、その人脈を生かして得意な方に声をかけチームを結成する旗振り役ですね。
宇宙園芸も手がける絵本作家
―トマトの他にも、最先端の農業研究もされていると伺いました。
JAXAや千葉大学園芸学研究院の後藤先生らと共に、宇宙園芸の可能性も探索しています。私は宇宙で出た廃棄物のトータルリサイクルを担当しています。宇宙での農業は廃棄物を出さないと同時に、資源を可能な限り再利用しなければなりません。究極のゼロエミッション・リサイクル環境です。宇宙園芸プロジェクトですが、これは地球でも活用できる極めて重要な技術です。「現場で役立つ研究」この軸はぶれません。
―一方で、絵本の出版や野菜ソムリエの顔も持っていますよね!
未来を担う子供たちに、安心して暮らせる環境といのちを支える食べ物の大切さを伝えたいという思いから絵本を執筆しました。「根っこの絵本」は根の部分をめくると土の中の様子が見えるしかけ絵本で、文字が読めない小さなお子さんでも楽しめます。
実は農林水産省時代、霞が関への長い通勤時間を使って多数の書籍の企画を練ったのです。「実験ができないなら、書き仕事を進めよう」と発想の転換で常に「今できること」を楽しんできました。
野菜ソムリエも土壌医も、野菜や土壌についてもっと深く知ろうと思い取得しました。すると思わぬ副産物があったんです。最難関の「野菜ソムリエ上級プロ」を取得した仲間には、普段なら出会えない冷凍食品コンサルタントや種苗会社の技術職の方がいて、さらに人脈が広がりました。運にも恵まれ楽しんで取り組んだ先に仕事が広がっていくのも私の特徴かもしれません。
柏の葉キャンパスを研究PRの拠点に
―先生は柏の葉キャンパスを拠点にされていますね。
私の研究室がある柏の葉キャンパスは、企業が集まる東京と研究の中心地であるつくばの間にあります。ロボットによる収穫デモを公開するなど、つくばのサテライトとして技術の展示ができたら、研究の認知度アップや企業へのPRにつながるのではないかなと考えています。地の利を生かして、食と園芸の産学官連携の舞台として柏の葉の発展に貢献したいですね。
―まさに産学官を歴任された先生ならではのアイデアです。今後の展望についてお聞かせください。
新しい技術や知見が出会うとき、大きなイノベーションが起こります。そのためには新しい情報が集まる場が必要です。私は、それこそが大学の役割と考えています。そして大学なら、未来を創る若い方に私が得た経験を伝えられます。残された時間で人材育成にも力を入れようと、2020年に大学へやってきました。
スペシャリストが多数を占める学問の世界において、私は珍しくゼネラリストです。園芸に関しては日本一と言っても過言ではない千葉大学で集合知を形成して、競争力ある農業の実現に向けて取り組んでいきます。
(※所属・役職は取材当時のもの)
インタビュー / 執筆
安藤 鞠 / Mari ANDO
大阪大学大学院工学研究科卒(工学修士)。
約20年にわたり創薬シーズ探索から環境DNA調査、がんの疫学解析まで幅広く従事。その経験を生かして2018年よりライター活動スタート。得意分野はサイエンス&メディカル(特に生化学、環境、創薬分野)。ていねいな事前リサーチ、インタビュイーが安心して話せる雰囲気作り、そして専門的な内容を読者が読みやすい表現に「翻訳」することを大切にしています。
連載
園芸イノベーション〜「食」と「緑」の未来を創る
国立大学で唯一存在する「園芸学部」は千葉大学にあった。食とランドスケープをテーマに新たな可能性にチャレンジする研究者たちに迫る。