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令和5年春の花粉飛散予測が環境省から発表された。今年は特に関東、北陸、中国地方で極めて多くなる見込みとのことだ。そこで本格的な花粉症シーズンを前に、現在スギ花粉症で唯一の体質を改善する治療とされている「舌下免疫療法」について、大学院医学研究院 耳鼻咽喉科・頭頸部腫瘍学の飯沼智久 助教にお話をうかがった。「聞いたことはあるけれどよく分からない」という方にこそ、ぜひ読んでいただきたい内容だ。
花粉症は経済へ影響も及ぼす日本の「国民病」
―まず、花粉症が発症するしくみを教えてください
花粉が眼や鼻の粘膜に接すると、花粉からアレルギーを引き起こす物質(アレルゲン)が放出され、そのアレルゲンを私たちの体が異物だと認識して戦ってしまうのがアレルギー反応です。くしゃみや涙で排出し、鼻の粘膜を腫らして(=鼻づまり)防御し、これ以上異物が入らないようにしているのです。
―花粉症は日本でどのくらいの人が発症しているのでしょうか
日本国内での有病率はこの20年間で10年ごとに10%ずつ増加し、2019年にはついに40%を超えました。これほど有病率が高く、なおも増え続けている病気はほかになく(下記グラフ参照)、まさに日本の国民病といえます。症状は鼻や目だけではなく皮膚や気管支などにも現われ、花粉が飛ぶ時期は国民の約半数が何らかの症状を持ち、睡眠、勉強、仕事、ひいては外出を控えるために個人消費が減少するなど、日本経済にも大きな影響を及ぼしていると言われています。
主な治療には抗ヒスタミン薬の内服や、鼻噴霧用ステロイド薬がありますが、症状を緩和する対症療法で根本的には改善できません。一度発症すると自然に治ることは少なく、一生つき合う覚悟が必要な病気です。
千葉大学が開発に深く関わった、スギ花粉症で唯一の体質改善治療「舌下免疫療法」
―花粉症と一生つき合う、言葉にすると重いですね。解決策はないのでしょうか
体を花粉に慣れさせて症状を体質から改善する「免疫療法」があります。海外ですでに約100年の歴史がある治療法ですが、かつては注射剤しかなく痛みやアナフィラキシー、頻繁な通院などを理由に日本ではあまり普及しませんでした。
そこで岡本美孝 前教授(現 千葉ろうさい病院 院長)が中心となり、スギ花粉症に対してデメリットを大幅に改善した「舌下免疫療法」が開発されました。これは現在、体質から改善効果が認められた唯一の治療法です。
―舌下免疫療法について詳しく教えてください
スギ花粉のエキスを含んだ錠剤を毎日1錠、舌下で1分保持する簡単な治療です。以前は要冷蔵の液体でしたが、海外の製薬会社と日本の製薬会社との協力で錠剤化に成功しました。常温で保管でき、持ち運びも簡単です。2014年10月から一般診療がスタートして以来、7~8割の方に効果が見られ、重篤な副作用の報告もほとんどなく、安全性の高い治療法といえます。5歳以上であれば服薬可能です。
スギ花粉が飛ばない季節(ゴールデンウイーク明け~11月)に始めて、スギ花粉へ体を慣らしていきます。なお、治療には保険が適用され、抗ヒスタミン薬の治療費と大きくは変わりません(初回に血液検査の費用等が別途必要)。
―症状がない季節から始めるのですね。どのくらいの期間続ける必要がありますか
投与から1~2カ月で緩やかに効果が現われます。ただし体質改善のためには、症状がなくても毎日1錠を約3年間飲み続ける必要があります。終了後の数年間は効果が持続するのですが、興味深いことに「元には戻りたくない」と、治療完了後も約半数の患者さんが服薬を続けています。
舌下免疫療法の作用メカニズムの一部を初めて解明
―どうして舌下免疫療法には体質を改善する効果があるのでしょうか
薬がどのようにして効果を発揮するのかを調べるため、千葉大学医学部附属病院で舌下免疫療法を受けている7名の協力を得て、治療前/治療後の血液中に含まれるアレルギーに関与する細胞について詳細に解析・比較しました。
すると、舌下免疫療法に効果があった被験者は、スギ花粉に反応してアレルギー情報を伝える物質(サイトカイン)を産生する細胞(Tpath2細胞)が減少し、かわりに機能の低い細胞(TransTh2細胞)と、炎症を抑制する細胞(Treg細胞)が増加していました。
この細胞の変化は、細胞の詳細な性質を調べられる「シングルセル解析」によって今回初めて明らかにできました。
―シングルセル解析は、今までの解析と比べてどのような点が優れているのですか
今までは細胞をまとめて分析していたため、全体の平均的な傾向を把握するレベルで留まっていました。しかしシングルセル解析では、ひとつひとつの細胞でどのような遺伝子の発現が強いか数千種類も同時解析が可能で、細胞の分化経路も予測できるのです。今回の研究結果から、Tpath2細胞がまずTransTh2細胞へ変化して、それからTreg細胞へ分化している可能性があると分かりました。また、「マスキュリン」という因子が発現し、分化を促していることも判明しました。現在、マスキュリンの発現量が舌下免疫療法の効果を測るマーカー(指標)として使えないか、さらに研究を進めています。
ITツールから伝統的な手法まで幅広く活用
―先生は遺伝子解析などの最先端技術のほかにも、さまざまなツールを活用されているそうですね
現代は何かあるとインターネットで検索しますよね。そこでキーワードが検索された回数が分かるGoogle Trends を用いて「花粉症」などの検索数をチェックして、診療に役立てています。この研究手法は、ヨーロッパの学会に参加した際、現地のアレルギー研究の重鎮の先生に教えてもらいました。おそらく70歳を超えている方でしたが、ウェブマーケティングのツールを研究に応用する斬新さに驚きました。ヨーロッパで開発され、世界25カ国で利用されているアプリ「MASK-air」も今年から本格的に活用したいなとも考えています。ヨーロッパにおけるアレルギー性鼻炎治療のガイドラインの作成にも使用されているツールです。
また、スギ花粉の飛散数とアレルギー症状の強さについて関連を調べるために、2006年からスギ花粉飛散期には大学の屋上で花粉を毎日採取する、サンプリング調査をチーム内で行っています。最先端技術を活用する一方で、こういう地道なデータ採取も研究の信頼性を高めるために大切なのです。
最適な治療法を選んで花粉症をうまくコントロール
―舌下免疫療法での花粉症治療は、現在のところスギ花粉だけに効果があるそうですね。ほかの花粉についてはどう対応すればよいでしょうか
現在日本で使用できるのはダニとスギ花粉に対する薬剤だけです。ただしスギ花粉症の症状を抑えておくと、その後に飛散するヒノキ花粉での症状は緩和される傾向がみられます。その他の花粉に対しては、海外では薬剤が開発されていますが、日本ではまだ手に入りません。
スギの木は樹齢30年頃に成熟し、最も花粉を多く産生します。また、今後温暖化の影響で花粉の量が増えると予測されています。花粉をつけないスギの開発なども進められていますが、残念ながら花粉の飛散はまだしばらく続きそうです。
皆さんが少しでも快適に花粉症シーズンを過ごせるよう、抗ヒスタミン薬、点鼻薬、そして千葉大学が開発に関わった舌下免疫療法などから最適な治療法が見つかればうれしく思います。
インタビュー / 執筆
安藤 鞠 / Mari ANDO
大阪大学大学院工学研究科卒(工学修士)。
約20年にわたり創薬シーズ探索から環境DNA調査、がんの疫学解析まで幅広く従事。その経験を生かして2018年よりライター活動スタート。得意分野はサイエンス&メディカル(特に生化学、環境、創薬分野)。ていねいな事前リサーチ、インタビュイーが安心して話せる雰囲気作り、そして専門的な内容を読者が読みやすい表現に「翻訳」することを大切にしています。
撮影
関 健作 / Kensaku SEKI
千葉県出身。順天堂大学・スポーツ健康科学部を卒業後、JICA青年海外協力隊に参加。 ブータンの小中学校で教師を3年務める。
日本に帰国後、2011年からフォトグラファーとして活動を開始。
「その人の魅力や内面を引き出し、写し込みたい」という思いを胸に撮影に臨んでいます。