※記事に記載された所属、職名、学年、企業情報などは取材時のものです
この世は「誤り」で満ちている。DVDや2次元コードをうまく読み取れなかったり、衛星放送にノイズが発生したりするのも「誤り」のひとつだ。千葉大学大学院理学研究院の萩原学教授は、こういった「誤り」を訂正するための理論づくりに取り組んでいる。
2020年、萩原教授は「あまりに難しいのでほぼ誰も取り組まなかった」分野の誤り訂正理論の構築にみごと成功。数学的な美しさと産業応用の両方を見据えつつ、精力的に研究を続けている。ゆくゆくは自身のライフワークであるビールづくりにも誤り訂正を活用したいというから、驚きだ。
「毎日が楽しくてたまらない」と語る萩原教授に、研究内容や自身の活動にかける思いを伺った。
情報社会を裏から支える「誤り訂正」とは
―最初に、先生の研究分野について教えてください。
「誤り訂正」という分野を研究しています。人間は、聞き取りミスや書き取りミスがあっても元の情報をある程度推測できますよね。これが「誤り訂正」です。僕たちが日常生活を円滑に送るには、こういった無意識の誤り訂正が必要不可欠なのです。
そして、誤り訂正が必要なのは情報機器やインターネット通信を含むデジタル世界も同じです。デジタルの世界は0または1を表す「古典ビット」から構成されますが、ビットが0から1に変わる「反転誤り」、一部のビットがなくなる「削除誤り」、不要なビットが追加される「挿入誤り」などが当たり前に起こります。僕は「誤り訂正ができる条件を数学的に記述・アルゴリズム化」することで、デジタル世界の誤りを訂正する研究をしています。いわば、情報社会を裏から支える研究ですね。
―どんな方法で誤りを訂正するのでしょうか?
誤り訂正の本質は「冗長化」です。例えば「カバ」という情報を伝えたい場合、「カカカババババ」のように元の情報を繰り返したり、「動物園にいる生き物のカバで、英語ではヒポポタマス」と関連情報を追加したりします。そうすれば、受け取った側は「『カバ』かな?」と推測できますよね。世の中にはさまざまな誤り訂正理論がありますが、元の情報を冗長化する点は共通です。
量子の世界にも誤りがある!量子コンピュータで活躍する「量子誤り訂正」
―私たちが快適なデジタルライフを送れるのは、誤り訂正のおかげなのですね!
そうですね、今のデジタル社会で活躍しているのは先ほどの「古典ビット」を訂正する理論です。実は、誤り訂正理論にはもうひとつ別の潮流があります。それが、量子コンピュータなどに使われる「量子ビット」を対象とした「量子誤り訂正」です。
量子ビットは、本当に不思議な性質を示すんです。例えば、古典ビットは0または1の状態しかとりませんが、量子ビットは0と1が重ね合わさった状態をとることができます。また、複数の量子ビットが互いに強く関連し合うことで、情報のテレポーテーションと呼ばれる操作もできるのです。
―量子ビットの誤り訂正は古典ビットの場合とどう違うのでしょう?
冗長化が必要なのは古典ビットの場合と同じですが、量子ビットならではの制約もたくさんあります。例えば、量子ビットを観測すると0と1の重ね合わせが壊れてしまうため、元のビットの状態を確認せずに冗長化する必要があります。また、量子ビットには古典ビットのような反転誤りや挿入/削除誤りのほか、0と1の重ね合わせの割合が変わる誤りや、ビットが別の「方向」を向く誤りなどもあります。つまり、より多様な誤りに対応する必要があるのです。
量子誤り訂正は難解な分野ですが、量子コンピュータ研究におけるホットトピックとして近年注目されています。研究が進めば、量子コンピュータの実用化にも大きく貢献できるはずです。
「数学的な美しさを楽しむ」異色のスタイルで、誤り訂正に革命を!
―先生はどういった経緯で誤り訂正の研究をはじめられたのですか?
学部生時代にとある雑誌で誤り訂正の特集を読んだことから、この理論に興味を持ちました。そこで、4年生では誤り訂正を学べる研究室(千葉大学・北詰正顕研究室)を選択し、古典誤り訂正を数学に応用する研究に取り組みました。
博士課程修了後の2002年には、誤り訂正の分野で世界的に有名な東京大学・今井秀樹研究室に博士研究員として就職。そこからは、量子誤り訂正を中心に研究しています。
―先生のご研究歴を詳しく教えてください。
2002年から2010年頃までは「量子LDPC符号」と呼ばれる量子誤り訂正符号の研究に力を入れていました。LDPC符号とは、反転誤りの信頼性と効率をきわめて高いレベルで両立できる誤り訂正理論です。古典版の準巡回LDPC符号と呼ばれるすぐれた符号を量子版につくりかえられないか検討していました。
しかし、これがものすごく大変でして…。いくら考えても量子版をつくるための条件を満たせず、2~3年くらいは霧の中でジタバタするような状況が続きました。しかしあるとき、学部生時代に学んだ「群論」という手法を組み込めばうまくいくことに、はっと気付いたんです。まさに、「こんなに悩んだのだからそろそろ解いてもいいよ」と神様が肩をたたいてくれたような感覚でした。何か目的を持って基礎固めを続けていれば、しかるべきタイミングで神様が導いてくれるんだと思いましたね。
―それはすごいですね…!何事も地固めと継続が重要なのですね。
その後、2010年からは量子削除誤り訂正の研究をスタートしました。実は、削除誤りというのは数ある誤りの中でも特に訂正が難しいんです。僕にはそれが「新しい理論を創出する必要性」に見えて、「そんなに難しいならやってやろうじゃないか!」と挑戦をはじめました。あまりの難しさに研究している人は世界でもほとんどいませんでしたが、その状況が逆に楽しかったですね。
その後、2020年に世界で初めて量子削除誤り訂正符号をつくることに成功しました。研究期間は10年にも及びましたが、2、3行で説明できる美しいシンプルな理論を確立できたので満足しています。
―先ほどからお話を聞いていると、先生はシンプルで美しい理論をつくることを目指されている印象を受けます。
そうですね、それが僕の特徴だと思います。誤り訂正理論は工学側から実用的な目的で研究する人たちが多いのですが、僕は「数学的にきれいな理論を見つけたい」という思いが一番にあります。そのおかげか、成果も論法も僕らしいユニークなものになっていると感じます。
しかし、応用に全く興味がないわけではありません。数学的な観点を楽しみつつ、可能なら産業応用も目指すのが僕のスタンスです。美しさと実用性を兼ね備えた理論をつくりたいですね。
「人の思い」や「ビールづくり」にも。誤り訂正の可能性は無限大
―企業との共同研究はされていますか?
いろんな企業と共同研究をしていますが、そのひとつに「数学を使って自分らしく生きられるか」というものがあります。これが結構面白い研究でして。例えばAさんが周囲の人々から圧力を受けて自分の考えを曲げたとします。この状況を「Aさんの思いに誤りが発生した」とみなし、誤り訂正を使ってAさんの本当の気持ちを取り戻すことを目指すのです。研究としてはまだアイデア段階ですが、企業側と精力的に議論を重ねています。
―人の思いまで誤り訂正できる可能性があるとは!驚きました!!
応用という意味では、僕のライフワークであるビールづくりにも誤り訂正を活用したいと考えています。
僕はクラフトビールが好きで、千葉大学の学生がビールづくりに挑戦する「千葉大ビールプロジェクト」の発起人でもあります。このプロジェクトでは、ビールの原料であるホップの選択に代数学の理論を活用しました。ここにさらに誤り訂正を取り入れれば、つくりたいイメージに、より合致したビールができるのではと考えています。
「やりたいことは絶対にやる」スタイルで、驚くほど楽しい人生を
―先生は、自分のやりたいことにどんどん挑戦されている印象です。どこからそのパワーが沸いてくるのでしょうか?
僕は基本的に、「努力はしない」「好きなことしかやらない」というスタンスで自分に正直に生きています。特に、「やりたいことがあるのに理由をつけてやらない」ことだけは絶対にしないと決めています。やるための理由付けは自分次第でどうにでもなると思いますから。
―なるほど、その強い信念が人生を楽しく生きることにつながるのですね。最後に、数学を目指す学生へのメッセージをお願いします。
みなさんは、「社会人になったらお金はあるけど遊ぶ時間がなくなる。だから学生のうちに遊んでおけ」という言葉をよく聞くと思います。私は社会人になって時間が減ったと思わないし、お金もあるので、もっと好きに遊べるようになったと感じています。だから、数学でも他の分野でも、学生のうちは学びたいことを集中して取り組んだら良いよ、と思います。
インタビュー / 執筆
太田 真琴 / Makoto OTA
大阪大学理学研究科(修士)を卒業後、組込みSEとして6年間勤務。
その後、特許翻訳を学んでフリーランス翻訳者として独立し、2020年からは技術調査やライティングも手がけるように。
得意な分野は化学、バイオ、IT、製造業、技術系スタートアップ記事。
「この人の魅力はどこか」「この人が本当に言いたいことは何か」を問いながらインタビューし、対象読者に合わせた粒度の記事を書くよう意識しています。
撮影
関 健作 / Kensaku SEKI
千葉県出身。順天堂大学・スポーツ健康科学部を卒業後、JICA青年海外協力隊に参加。 ブータンの小中学校で教師を3年務める。
日本に帰国後、2011年からフォトグラファーとして活動を開始。
「その人の魅力や内面を引き出し、写し込みたい」という思いを胸に撮影に臨んでいます。